感想倉庫

鑑賞したものの感想倉庫、時々更新

『マーチ家の父 もうひとつの若草物語』を読んだ。

平和を求める活動(デモなど)を行いたいと思うことがしばしばある。
何か少しでも表現する方法があってほしいと思うことがしばしばある。
SNSなどのお陰で被害に合っている人が可視化される。
そういう人たちに何かできればと思うことは確かだ。

SNSやインターネットのお陰で、そういったものにアプローチをとりやすくなった面は
ある。署名や情報の拡散に募金もしやすくなった。それでも家で「このままでいいのかな」と思うこともある。そういった反面、私の生活とデモが行われる場所は相性が良くない。

『マーチ家の父 もうひとつの若草物語』は、そういった平和を求める自主的な活動と家庭の食い合わせの悪さみたいなものが、歴史的事実と屈指の児童文学をベースに生まれた作品だった。『若草物語』の4姉妹の父であるマーチ氏の若き日と南北戦争中の日々がメインでつづられている。マーミーの視点もある。南北戦争では従軍牧師をしていたマーチ氏がどんな人物であるか。何を見て来たか、そういった話である。

南北戦争は平和を求める自主的な活動とは違うだろうが、自分の生活に何をフィードバックするか、と言われたときに、私はそれを想い描いた。


そうやって誰かの自由と平等のために戦うことができる人間がどういう人間であるのか、どういう生活をしているかをある意味見ることができるのかなと思う。もちろん、これはフィクションではあるが、真実があるように見えた。そして、それを高潔ということは難しいと感じてしまった。それは私が「家庭を優先する」人だからだろう。マーチ氏の、マミーへの裏切りを許すことは私は正直できるか分からない。でも、当時に離婚なんて選択ができるのかはもっと分からなかった。だから、マミーの気持ちが分かる。

『マーチ家の父』は、それだけではない。マーチ氏にとっての自由の象徴である人物から距離をとられる。明らかに突き放されるのだ。差別において、重要なことだ。
当事者でもない人物が関与できる境界を考えるべきなのだと感じさせられた。マーチ氏にとっての南北戦争は、罪悪感という名の執着のようなものなのかと思った。その気持ちも分かるのだ。単純に恵まれていただけの自分が、ただ存在しているだけで幸せなんて、歯がゆくなることが私みたいなやつでもあるのだから。

若草物語』があるので、マーチ氏がどういう選択をするのか私は知っていながら
読んでいた。確かに『若草物語』を読んでいる間、『ストーリーオブマイライフ』を観ている間、この父がどういう人間であるか気になったことがあった。
作者であるジェラルディン・ブルックスさんは、ルイザ・メイ・オルコットの父についてよく調べたと言っている。ルイザ・メイ・オルコットは父を影響を自分に与えた人物と言っていたようなので、この視点で物語を書くことについては、とても共感してしまったし、とても見事だと思った。
平和を求める活動が日常的に身近に感じている今、それの必要性と距離感とを考える、有意義な読書の時間だった。