感想倉庫

鑑賞したものの感想倉庫、時々更新

『シャーリー・ホームズと緋色の憂鬱』を読んだ。

あなたのホームズはどこから?ということで、私のホームズは『名探偵ホームズ』から。今思えば獣人的なキャラクターが出てくる作品を好むのも、そこがスタートなのかもしれない。

宮崎駿の『名探偵ホームズ』ば推理要素は薄いものの、キャラクターデザイン含めてヨーロッパ憧れを持つには十分だった。そこから何となく原典を手にとってみたけれど、活字耐性のできていない小学生だった私には「…よく分からん!」で終わってしまった。

再会はBBCSHERLOCKベネディクト・カンバーバッチマーティン・フリーマンのあれである。熱心に見ていたし、面白かったし、熱狂的なファンではないけれど好きだった。そこで気づくべきだった。シャーロック・ホームズはキャラクターこそが魅力なのだと。宮崎駿があんな風にホームズをアニメ化して時点で、そもそもキャラクターは魅力的なんだと気づくべきだった。今の今まで分かっていなかった。もちろん、シャーリー・ホームズとジョー・ワトソンも魅力的なキャラクターだった。現代的にアップデートしただけではなく、SF要素まで出てきた。好きな要素が多すぎる。

何せほとんどが女性。シャーロックもワトソンも女性。モリアーティもマイクロフトも女性。「女性でいるのが面倒くさい」と思っている私は、そういう気持ちを抱えて生きているのは私一人ではない、と思いたい。孤独は分け合いたいし、楽しかったことは倍増させたい。だから、何となく女性がたくさん出て来ると、それだけでワクワクしてしまうところがある。

ところが、この主人公はそうじゃない。シャーリーは「女性でいるのが面倒くさい」なんて、人生で一度も思ったことがなさそうだ。彼女がそんな感じなのには理由はいろいろあるんだと推測される。けれど、理由はどうあれ、そこに爽快感を覚えた。ジョー・ワトソンだって他のキャラクターだって、なんだかんだ「女性」に生まれてしまったから起こる多少の面倒くささを感じながら生きていそうなのに、彼女はそこから自由でありながら、女性なんだ。

それなのに、「女性の面倒くささ」に首突っ込んでるのに、なんだか楽しそうに生きているように見えるジョー・ワトソンがいる。ジョーがシャーリーを詩的だと言うシーンが、私の心の中に残っている。

 

ミステリーって「誰が犯人なんだ」というのが、話を読み進める上でとても大事な動機になっていると思っていた。『金田一少年の事件簿』や『名探偵コナン』よろしく、「この中の誰が犯人なんだろう…」というものがミステリーなんだと思っていた。先日読んだ『十角館の殺人』もそうだ。「この中の誰が犯人なんだ」という気持ちがミステリーの醍醐味で、それと私はあまり相性が正直良くない。面白いが、好きにはなれない。何となく私は「悪口」と同じ箱の中に入れてしまいたい、そんな気持ちだ。

シャーリー・ホームズはそんなことはなかった。そこが驚きだった。魅力的なキャラクターに、魅力的なヴィラン、面白いトリック、そして、犯人の動機。ポップな語り口の中に、悲しさがにじみ出てきて切なくなる。ジョー・ワトソンのキャラクター造詣が良いのだと思った。彼女の俗っぽさが、ふと立ち昇る何とも言えない感情に詩的な揺らぎを見せてくれているのだと思う。

 

なんにしろ、こんなに古今東西、シャーロックが形を変えて何度も何度も作品化される理由をしっかり感じることができた1作だった。「何がそんなに面白いのか…」と分かっていなかった小学生の頃の私に教えてあげたいものである。もしかしたら原典も今なら楽しく読めるかもしれない。それはそれで楽しそう。